第164回芥川賞・宇佐見りん著『推し、燃ゆ』読書感想

宇佐美りん著推し、燃ゆ

あらすじ

――推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。
から始まる宇佐見りん著『推し、燃ゆ』。ざっくりとした粗筋を綴ると、ファンを殴ったアイドルがSNS上で炎上し、それでも主人公は推し続ける事をやめない。自分自身と推しの生活が変容していくなかで、バイトをしながら自分の全力でファングッズを購入して、応援していく。やがて推しが引退するとき、あることを見つける。SNS上で住所を特定され、無自覚に主人公は生活感のある現場を目撃し、これまでのようには推しを推していけない。そのことに気づいた。

病院で診断されている主人公

この主人公は、普通の健常な主人公ではない。勉強があまり得意ではなく、忘れ物も多い。何の病気か触れられていないものの、病院で診断を受けている背景から、近年よく言われるようになった発達障碍の一種であるようにうかがえる。

興味のない勉強には成果を出せなくて、ビリケツ。であるにもかかわらず、推しを推し抜くために、できないなりにバイトをして収入を推しにつぎ込む。
勉強はできなくても、推しのためなら努力をいとわず、推しに関する勉強はトップレベルの成果を発揮する事もできる。

特定のことにこだわり強い人は、常人では考えられないような力を発揮する人も居るわけだが、この主人公もその類いだろう。

力なき主人公から力を引き出す推しのアイドル

主人公は、通常の学業で力を発揮できない。にもかかわらず、推しに関するメディアを何度も視聴しては、推しの発言を一字一句違わずノートに書き連ねたり、ブログに投稿して惜しみなく自身の全力で応援する。推しに関することだけには、一種異様な力を発揮している。ひとつのメディアを視聴した感想をここまで愛をもって語れるのか、アイドルを応援するなかでも崇拝に近いほどののめり込み様だ。

生活力が全くない主人公でも、推しを自身の全力の経済力で推しきるために、バイトのシフトも推しを推す日以外は全部入れるわけである。決して生きる事を怠けているのではなく、推しを推すために全力で行動する様子は、推すこと自体が生きるモチベーションになっているようである。

アイドルを推したところで、通常は見返りはない。応援してくれてありがとう、というレスぐらいはあるかもしれないが、それだけのために、応援してよかった、推していてよかった、と思うわけである。そして、更に推していくために努力していくさまは生きる糧になっていると言っても良く、見返りがなくアイドルが自身の助けになる力添えを直接しているわけでも全くないなかで、生きる力を与えているさまは、アイドルが一種の信仰の対象として力を持っているとさえいえる。

汝自身から湧きいずるものに従え

色々なことができない主人公は、推しを推すために全知全能、全身全霊で生きる力を発揮している。それは、決して推しのアイドルが何かを直接助けてくれているわけでもなく、主人公の想いや祈りが主人公の自身の内奥から湧きいずる力となって、あくまで主人公自身が自力で獲得している生きる力であるということである。推しを推す事自体で自分自身から生きる力を発掘して、力強く生きていくさまは他の人からはナンセンスにみえても、それなりに生き方としては立派であるとさえ思う。少なくとも他力本願で依存するような努力をしない人ではない。推すために自身の全力で挑戦し、また努力するエネルギーを自分自身から湧き出す。

人間に生きる力をもたらす信念や想い、願望は形を変えた信仰である。何を信じているかによって人間がどれだけ生きる力を発揮できるかは変わってくる。この主人公は、推しを推す事自体に命をかけて、そのためだけに生きている。またそれだけの力を引き出せる信仰の対象がアイドルであっても、それは信仰の対象として力を持っているといえまいか。

結局、自分自身で何を願い、行動していくか、そしてそれによって自分自身の内奥から生きる力を引き出していく一次元の信仰は、生きるためのエネルギーになっているという意味で、信仰としての力を持っている。そして自分自身の発露である限り、推しを推す行為は他者からとやかく言われる筋合いのないものである。それだけの力を自分自身から引き出すアイドルというものは、偶像といわれようとも崇拝したなりの見返りがあるといえる。

偶像崇拝 信じる対象が力を失う

信仰というと仰々しい感じがするし、本書にはそういった文言は出てこないが、間違いなく一種の信仰である。日本人は特定の宗教をもっていることを特別視しがちだが、無宗教で何も信じていないと言いつつ、明日の命がある事をきっと信じている。何かを信じて生きる事も広義では信仰である。特定の神のようなものを信じる宗教がない人の信仰の対象は、宇宙の畏敬であったり、お金であったり、科学であったり、親であったり、恋人であったり、本書では推しのアイドルであったりするわけである。

この場合、主人公は推しのアイドルを信仰することによって力を得ているといえるかもしれない。だが、一歩立ち入って考えると、推しを推す自分自身の信念に従って行動している限り、それは自分自身の力を信じていることであって、推しを推しきる内奥の信念を信仰しているともいえるわけである。自分自身の力を信念とした信仰は、とても曖昧なもので、信念が敗れれば、途端にそこで力を引き出せなくなる。だから、何を根本とした信念を持っているかが人間が生きる力を発揮するために最も重要な命題である。

果たして、推しを推しきる人生で、そのまま生きる力を引き出してずっと生活していけるのか。主人公は、推しの引退発表で、あることを見つけてしまう。そして、SNSで特定された住所を無自覚に訪れるのであるが、生活感のある現場を目撃し、一気に脱力する。

崇拝していた推しが、これまでのように推せない、そのことを自覚して物語は終わる。アイドルを推すことは、個々人の自由であるし、何を信じて戦うかも自由である。しかし、自分が神のように崇拝できる推しが単なる独りの同じような人間であることを悟ったとき、信仰の対象としての力は失われたわけである。推しのアイドルを誰がなんと言おうと『信仰』の対象としている人はごまんと居るわけだが、信じたなりの力を引き出せる場合もあるし、また信じた対象が有限のものである場合は(この場合引退であるが)、そこまでの力という事になる。

推しを推す事自体を生きる糧とした主人公は、最後に脱力するが、何を信じて推すのかが、問われていく事になる。何か自分自身の信念をもって、それに準じて力の限り推すのであれば、一向に構わないわけであるが、推す事自体が信念である場合、推せなくなったら信念の敗北である。

推しであるならば、もう一歩深く、何のために推すのか、常に自身に問うて応援していくべきである。

最後に

本書はミステリーや推理小説ではないので、爽快な解決を試みてはいない。であるが、最後の数ページで読後感はすっきりとしている。ファンを殴った推しのアイドルの話で生活が変わっていきました、そこに共感できそうな人は読むと良いかもしれない。

端的にいえば、推しを推すことで生きる糧としている主人公の変容していくさまを描いた青春の物語である。応援しているアイドルがいる人は、共感できる部分があることは間違いないので、おすすめしたい。また、もう一歩深く、本書を手に取った自分自身は何のために推すのか、そこを思考する一助となろう。

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